小さなピンバッジに刻まれた、人生の足跡
小さな宝物に宿る、それぞれの物語
私たちの身の回りには、一見すると何気ない、小さな品々が溢れています。しかし、ある人にとっては、それらの小さな品々が、人生の大きな物語を語りかけてくることがあります。今回は、様々な場所で手に入れたピンバッジを長年収集されている、田中さん(仮名、70代)の物語をご紹介いたします。
田中さんのご自宅に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは、壁一面に飾られた色とりどりのピンバッジです。一つ一つが丁寧にボードに並べられ、まるで小さな美術館のようです。観光地の記念品、企業のロゴ、キャラクター、スポーツイベントのものまで、その種類は実に多様です。
「これが、私の人生の記録のようなものなのですよ」と、田中さんは穏やかな笑顔で話してくださいました。
一つのピンバッジから始まった収集
田中さんがピンバッジ収集を始められたのは、今から三十年以上前のことだと言います。きっかけは、初めての海外旅行でした。
「仕事でヨーロッパへ行く機会がありましてね。観光する時間はあまりなかったのですが、現地の小さな土産物店で、その国の国旗と有名な建物のピンバッジを見つけたのです。その時は、単なる記念品として、妻と自分用に一つずつ買っただけでした」
帰国後、そのピンバッジを会社のバッグに付けていたところ、同僚から「素敵なピンバッジですね」と声をかけられたそうです。その時、何気なく買った小さな品に、旅の記憶や雰囲気が詰まっていることに気づいたと言います。
それ以来、出張や旅行のたびに、その土地ならではのピンバッジを探すようになりました。初めは旅行の記念でしたが、次第にその小ささの中に凝縮されたデザインや色合いに魅了されていったそうです。
ピンバッジが語る、人生の節目と出会い
田中さんのコレクションには、それぞれのピンバッジにまつわる、たくさんのエピソードがあります。
例えば、若い頃、懸命に開発に携わったプロジェクトの記念として社員に配られた、今はもう存在しない会社のロゴが入ったピンバッジ。 「これを見るたびに、徹夜続きで議論した日々や、プロジェクトが成功した時の喜びが鮮明に蘇るのです。大変な時期でしたが、私を育ててくれた大切な経験でした」
お子様が小さかった頃、家族旅行で訪れた遊園地のキャラクターピンバッジもあります。 「この耳の折れたピンバッジは、息子が落としてしまったのを、みんなで一生懸命探した思い出のものです。見つけた時は、息子も私も本当に嬉しくてね。今はもう大きくなりましたが、これを見るたびに、あの頃の賑やかな笑い声が聞こえてくるようです」
また、ピンバッジを通じて、思わぬ出会いもあったそうです。ある時、古いイベントのピンバッジを付けていたところ、それを見かけた見知らぬ人から声をかけられ、そのイベントにまつわる思い出話で盛り上がったことがあったと言います。 「同じものに興味を持つ人がいるというだけで、話が弾むものなのですね。小さなピンバッジが、人と人との繋がりを生むこともあるのだと知りました」
収集を続ける中で、中にはどうしても手に入れたいと思う珍しいピンバッジに出会うこともありました。古いアンティークマーケットを訪ね歩いたり、インターネットで情報を探したりと、熱中する日々は、仕事一筋だった生活に新たな刺激を与えてくれたと言います。苦労の末に手に入れたピンバッジは、その過程も含めて、より一層愛着が湧くのだそうです。
人生の軌跡を映し出す、小さな鏡
田中さんにとって、ピンバッジは単なる収集品ではありません。それは、人生の様々な出来事、出会い、感情が詰まった「小さなタイムカプセル」のようなものだと話してくださいました。
壁一面に並べられたピンバッジを眺めていると、楽しかった旅の思い出、頑張った仕事の記憶、愛する家族との温かい時間など、人生の軌跡が鮮やかに浮かび上がってくるのだそうです。それぞれのピンバッジが、その時の自分自身の心境や風景を映し出す鏡のように感じられると言います。
これからについて尋ねると、田中さんはこう続けられました。 「これからも、旅先や興味を持った場所でピンバッジを見つけたら、一つずつ手に入れていきたいですね。無理に集めるというよりも、偶然の出会いを楽しみたいと思っています。このピンバッジたちを見るたびに、これまでの人生を振り返り、そしてこれからの日々を大切に生きていこうという気持ちになりますから」
小さなピンバッジ一つ一つに込められた、田中さんの豊かな人生の物語。その輝きは、私たちに、身近なものの中に宿る、かけがえのない価値に気づかせてくれるようです。