私と推しグッズ物語

一枚の酒ラベルが呼び覚ます、人生のあの頃

Tags: 酒ラベル, 収集家, エピソード, 思い出, 人生

一枚の紙片に宿る、語り尽くせぬ物語

私たちの日常には、何気なく目にしているものが数多く存在します。その一つひとつに、実は誰かの情熱や、過ぎ去った時間の物語が宿っていることがあります。今回は、そんな静かな情熱を、一枚の紙片に傾ける収集家のお話をお伺いしました。

お話を伺ったのは、都内で古書店を営む傍ら、数十年にわたり古いお酒のラベルを収集されている田中さん(仮名、70代)です。田中さんの収集棚には、日本酒、焼酎、ビール、ワインなど、様々な種類と時代の酒ラベルが整然と、しかしどこか温かみを持って並べられています。どれもが、かつて瓶に貼られ、誰かの手に取られ、そして飲まれたお酒の一部であったことを静かに物語っています。

収集の始まりは、父の棚から

田中さんが酒ラベルの収集を始められたのは、今からもう50年ほど前になるそうです。きっかけは、実家にあった古い日本酒の瓶でした。

「私の父は、晩酌を欠かさない人でした。特に、近所の酒屋さんが勧めてくれた地酒を好んでいましたね」と田中さんは当時を振り返ります。「その瓶に貼られたラベルが、子供心にとても印象的だったのです。墨で書かれた銘柄の文字、小さな版画のような絵柄。子供には読めない漢字がたくさん並んでいましたが、そこから何か物語を感じていました」

ある日、空になった瓶を片付ける父の姿を見て、田中さんは思い切って瓶からラベルを剥がしてみることにしました。水に浸けてそっと剥がし、乾かしたその一枚が、収集の第一歩だったと言います。それは、特別なデザインではなかったかもしれませんが、田中さんにとっては父との時間を思い出す、大切な「最初のコレクション」となったのです。

その後、田中さんは大学進学のために上京し、古書店でのアルバイトを始めます。様々な古書や古物と触れ合う中で、古い酒ラベルが持つデザイン性や歴史的な側面に改めて魅せられていきました。古書店に持ち込まれる古い家財道具の中に酒瓶を見つけると、ラベルを譲ってもらえないか声をかけるようになったそうです。

ラベルが語る、時代の空気と人々の営み

田中さんの収集は、単にラベルを集めるだけではありません。それぞれのラベルが作られた時代背景や、そこから見えてくる人々の暮らし、酒造りの歴史にも深い関心を寄せています。

例えば、戦中・戦後のラベルには、物資不足を反映したかのような簡素なデザインや、米以外の原料を使ったお酒の表示が見られます。高度成長期に入ると、デザインは多様化し、洋酒のラベルも増えていきます。地方の小さな酒蔵のラベルには、その土地の風土や人々の素朴な思いが込められているように感じられるそうです。

「このラベルを見てください」と田中さんが指差したのは、昭和30年代と思しき、小さな酒蔵の日本酒ラベルでした。「この絵柄、おそらく地元の風景を描いているのでしょう。ラベルの裏には、手書きで『田植えの後に一息』と書かれていたこともありました。誰かが飲んで、そこに書き残したのでしょうね。一枚のラベルから、当時の農家の方々の暮らしや、お酒が果たしていた役割が目に浮かぶようです」

また、珍しいラベルとの出会いには、苦労も伴います。古い酒店が廃業すると聞けば足を運び、骨董市を巡ります。目的のラベルを見つけても、綺麗に剥がすのは至難の業だと言います。水に浸ける時間、温度、そして剥がす時の力加減。ラベルの種類や紙質によって最適な方法が異なり、何度も失敗を繰り返しながら技術を培ってきたそうです。

「どうしても手に入れたかった、明治時代の焼酎ラベルがあったのですが、水に浸けたら文字が滲んでしまったことがあります。その時は本当に落ち込みました」と苦い経験も語ってくださいました。「でも、その失敗があったからこそ、次に同じような紙質のラベルに出会った時には、より慎重に、そして丁寧に向き合うことができるのです。ラベル一つ一つに、学びがあります」

ラベルと共に歩む、静かで豊かな時間

田中さんにとって、酒ラベルの収集は人生と共に歩んできた道のりそのものです。一枚のラベルを手に取り、それが貼られていた瓶の形、そこに詰められていたお酒の味、そしてそのお酒が飲まれたであろう情景に思いを馳せる時間は、何物にも代えがたい豊かなひとときだと言います。

それは、単なる物の収集を超え、過去の時代や見知らぬ人々の営みとの静かな対話なのかもしれません。ラベルを通して、田中さんは自分の知らない歴史や文化に触れ、また自分自身の人生の中で出会ったお酒の思い出も呼び覚まされます。祝い事の席で開けられたお酒、旅行先で地元の味を楽しんだ時、友人と語り明かした夜に傍らにあったお酒。それぞれのラベルが、人生の大切な一場面と結びついているのです。

「最近は、新しいラベルもデザインが洗練されてきて面白いものが多いのですが、やはり私は古いラベルに惹かれます」と田中さんは語ります。「そこには、作り手の愚直なまでの思いや、時代の空気、そしてそれを飲んだであろう人々の体温のようなものが感じられる気がするのです。一枚の小さな紙片ですが、私にとってはかけがえのない宝物です」

これからも、田中さんの酒ラベル収集は続いていくことでしょう。棚に並ぶ一枚一枚が、静かに、しかし確かに、それぞれの物語を語りかけてくれる限り、その情熱が尽きることはないようです。一枚の酒ラベルが呼び覚ますのは、単なる過去の記憶だけではなく、現在を生きる私たち自身の心にも、静かに何かを問いかけてくるような、そんな深みのある物語なのかもしれません。