一枚の切手が紡ぐ、遠い記憶の風景
小さな紙片に宿る歴史と人生
人が何かを収集する理由は何でしょうか。それは単に物を集めるという行為に留まらず、その対象に込められた物語や、収集を通じて生まれる人との繋がり、そして何よりも、自身の内面と向き合う時間なのかもしれません。
今回お話を伺ったのは、古い切手収集を長年続けていらっしゃるAさんです。穏やかな表情で切手のアルバムを広げるAさんの指先が、一枚一枚の小さな紙片を優しくなぞります。そこには、色とりどりの意匠が凝らされた切手が静かに収められていました。
切手との出会い、そして夢中になった日々
Aさんが切手収集を始めたのは、小学生の頃だったといいます。近所の文房具店で、色鮮やかな外国の切手が貼られた封筒を見かけたのがきっかけでした。「それまで見たこともないような絵柄で、まるで遠い国の絵葉書を見ているようでした。一枚の小さな紙に、こんなにも美しい世界が詰まっているのかと、子ども心に強い衝撃を受けたのを覚えています。」
それからというもの、Aさんはお小遣いを貯めては切手を買ったり、手紙に使われた切手を丁寧に剥がして集めたりするようになりました。特に夢中になったのは、使用済みの古い切手でした。「消印一つ一つに、その切手が旅してきた道のりや、送られた人の想いが込められているように感じられたのです。インクの濃さや形、日付から、遠い昔にこの切手が使われた瞬間に思いを馳せるのは、何とも言えない豊かな時間でした。」
学生時代には、切手交換会にも参加するようになりました。そこには、年齢も職業も異なる様々な人々が集まり、皆が切手という共通の話題で目を輝かせていました。「見知らぬ方と切手を見せ合い、交換し合う中で、たくさんの発見や学びがありました。この切手はこんな歴史がある、この消印は珍しい、といった専門的な知識もそうですが、何よりも、同じ情熱を持つ人との出会いが、私の世界を大きく広げてくれたのです。」
一枚の切手に隠された、思いがけない物語
数あるAさんのコレクションの中でも、特に心に残っている一枚があるといいます。それは、ごく平凡な日本の普通切手でした。しかし、その切手が貼られた古い手紙を、古物市で見つけた時、Aさんはただならぬ気配を感じたそうです。
「手紙の差出人も受取人も知らない方でしたが、その文章を読んだ時、胸を打たれたのです。戦時中の、家族を案じる切実な思いが綴られていました。この手紙が書かれ、この切手が貼られ、遠い場所に届けられた。その一つ一つの過程に、書いた人の祈りや、届けた人の労苦があったのでしょう。この切手は単なる郵便料金の証ではなく、その時代を生きた人々の、確かに存在した『生』の証なのだと強く感じました。」
その手紙と切手は、Aさんにとって単なる収集品ではなく、過去と現在を結ぶ細い糸、そして歴史の重みを感じさせる大切な存在となりました。「古い切手を見ていると、その時代の人々の暮らしぶりや、社会の様子が目に浮かぶようです。一枚の小さな紙片が、教科書には載っていない、人間の温もりや苦悩を教えてくれる。それが、私にとって切手収集の最大の魅力かもしれません。」
収集が人生にもたらしたもの
切手収集は、Aさんの人生に様々な影響を与えてきたといいます。歴史や地理に対する関心が高まり、細部まで注意深く観察する集中力が養われました。また、求めている切手にすぐに出会えない経験からは、根気強く待つこと、諦めないことの大切さを学んだそうです。
「収集を通じて得た知識や経験は、日々の生活にも活かされています。物事を多角的に見る視点や、一つのことを掘り下げて考える習慣は、仕事や人間関係にも役立っています。そして何よりも、切手という対象を通して、目に見えない人の営みや歴史の流れを感じ取る感性が磨かれたように思います。」
Aさんは現在も、新しい切手との出会いを楽しみにしながら、ゆったりとしたペースで収集を続けています。「もう、手あたり次第に集めるというよりは、心惹かれる一枚とじっくり向き合う時間が増えました。それぞれの切手が持つ物語に耳を傾け、それを大切に守り伝えていくこと。それが今の私の喜びです。」
一枚の小さな切手には、確かに遠い記憶と、それを大切にする人の温かい情熱が宿っていました。Aさんの穏やかな語り口から伝わってくるのは、収集という行為が、その人の人生をいかに豊かにし、深い洞察を与えてくれるかということでした。