古いレコードが奏でる、人生という名の旋律
古いレコードが奏でる、人生という名の旋律
私たちの人生には、忘れられない音色やメロディーが寄り添っているものです。それは青春時代の流行歌であったり、遠い故郷の風景を思い起こさせる調べであったりします。今回は、古いレコードの収集を通して、ご自身の人生の旋律を紡いでいるという、都内にお住まいの田中さん(仮名、70代)にお話を伺いました。
田中さんの部屋の一角には、壁一面に並べられたレコード棚があります。クラシック、ジャズ、歌謡曲、洋楽ポップスなど、ジャンルは多岐にわたりますが、どれも長い年月を経た風合いを湛えています。一枚一枚に触れる田中さんの指先には、深い愛情が宿っているように見えました。
一枚のレコードに導かれて始まった物語
田中さんがレコードを本格的に集め始めたのは、今から50年ほど前、20代の頃だったと言います。きっかけは、偶然立ち寄った中古レコード店で耳にした一枚のジャズアルバムでした。それまで特定の音楽に熱中することはなかったそうですが、そのレコードから流れる音色は、それまで知らなかった世界への扉を開いたかのようだったと振り返ります。
「まるで、音の粒が空気中を舞っているのが目に見えるようでした。それまで聴いていた音楽とは全く違う、深みと広がりを感じたのです。そのレコード盤を手に取った時、単なる『音源』ではなく、作り手の息遣いや、時間が刻まれた『モノ』としての存在感に惹きつけられました。」
その日を境に、田中さんの休日はレコード店巡りが中心となりました。少ない小遣いを握りしめ、時には電車賃を節約して歩き、お目当ての一枚を探し求めたと言います。初期の頃は、なかなか欲しいものが見つからず、苦労することも多かったそうです。特に、学生時代のアルバイトで貯めたお金でようやく手に入れた、憧れのジャズピアニストのオリジナル盤は、今でも最も大切な一枚として棚の中心に置かれています。そのレコードには、当時の緊張と喜びが鮮やかに刻み込まれているとのことでした。
レコードと共に歩んだ人生の風景
それぞれのレコードには、田中さんの人生の節目にまつわるエピソードが詰まっています。例えば、あるクラシックレコードは、初めての海外出張からの帰りの飛行機で聴いていた曲だったと言います。緊張と期待が入り混じった当時の心境が、その調べを耳にするたびに蘇るそうです。また、ある歌謡曲のシングル盤は、奥様と初めてデートした時に流行していた曲で、一緒に聴いた思い出があると言います。
「レコードを聴くことは、単に音楽を楽しむだけではありません。その時の自分の年齢、一緒にいた人、見ていた風景、感じていた感情など、様々な記憶が芋づる式に引き出されるのです。まるでタイムマシーンに乗って、過去の自分と再会するような感覚です。」
収集が進むにつれて、レコード仲間との出会いもありました。情報交換をしたり、一緒にレコードを探しに行ったり、時にはお互いの家でコレクションを聴き合ったりする中で、かけがえのない友情が育まれたと言います。インターネットが普及していなかった時代、情報は足で稼ぐものであり、人との繋がりが何よりも貴重だったのです。
しかし、収集には苦労も伴いました。増え続けるレコードの保管場所には常に頭を悩ませ、時には家族から「もう十分ではないか」と言われることもあったそうです。また、古いレコードは状態が悪くなっているものも多く、ノイズの多い音にがっかりすることもあったと言います。それでも、埃を払い、丁寧に手入れをし、再びターンテーブルに乗せた時に、澄んだ音色が響いた瞬間の喜びは格別だったと語ります。
音楽に導かれる、これからの時間
現在、田中さんは現役時代ほど精力的にレコードを探し回ることは少なくなったそうですが、一日の中でレコードを聴く時間は欠かせないものとなっています。朝起きてまず一枚、昼下がりの休息に一枚、そして夜、静かにグラスを傾けながら一枚。その時の気分や天候に合わせて選ぶ一枚が、日々の暮らしに彩りを与えてくれていると言います。
「若い頃のように、新しいレコードを追い求める情熱も素晴らしいと思いますが、私にとっては、今ある一枚一枚とじっくり向き合う時間が何よりも大切です。それぞれの音に込められた物語、そしてそこに重なる自分の人生の物語を、噛みしめるように聴いています。」
田中さんにとって、レコード収集は単なる趣味を超え、ご自身の人生そのものと深く結びついた営みです。古いレコード盤が奏でる音色は、失われた時間を取り戻し、過去の自分と現在の自分を繋ぎ、そしてこれからの時間を豊かにする、人生という名の旋律なのです。その穏やかながらも確固たる情熱に触れ、改めて収集の持つ奥深さを感じることができました。