一枚のマッチ箱が映し出す、人生の風景
小さな箱に詰まった、かけがえのない記憶
私たちの日常の中には、ふとした瞬間に過去へと思いを馳せさせる小さな「扉」のような存在があります。今回お話を伺ったのは、定年退職後に再びマッチ箱の収集に情熱を傾けていらっしゃる山田さん(仮名、70代)です。山田さんにとって、一枚一枚のマッチ箱は単なるノベルティグッズではなく、そこに記された店名やデザインとともに、その場所で過ごした時間、出会った人々、そして自身の歩んできた道のりを鮮やかに映し出す大切な宝物だと言います。
マッチ箱収集と聞くと、若い頃に喫茶店やバーで記念に持ち帰った経験をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。山田さんが収集を始められたのも、学生時代、友人たちと入り浸っていた街の喫茶店でした。当時、マッチ箱はどのお店にも必ずと言っていいほど置かれており、個性的なデザインを見るのが楽しみの一つだったそうです。特に意識して集めていたわけではなかったそうですが、数が増えるにつれて、いつしかそれらが自身の学生生活の記録のように感じられるようになったと言います。
エピソード:時を超えて蘇る風景
収集を中断していた時期を経て、本格的に再びマッチ箱を集め始めたのは、数年前に仕事を終えられてからのことでした。時間にも心にも少し余裕ができたとき、昔集めていたマッチ箱の束を目にし、一枚一枚手に取った際に、忘れかけていた当時の感情や風景が鮮やかに蘇ってきたことがきっかけだったそうです。
特に心に残っているのは、今から40年以上前、新婚旅行で訪れた地方都市の小さな喫茶店のマッチ箱だと言います。当時の山田さんご夫婦にとっては少し背伸びをしたようなおしゃれなお店で、旅の疲れを癒やす温かいコーヒーの味とともに、店内に流れていた音楽、奥様と交わした他愛のない会話が、その色あせたマッチ箱を見るたびにありありと思い出されるそうです。そのお店はもう存在しないそうですが、マッチ箱がそこにあった時間を閉じ込め、時を超えて当時の温かい気持ちを届けてくれるのだと、山田さんは静かに語られました。
また、若い頃に仕事で全国各地を飛び回っていた時期に立ち寄った喫茶店のマッチ箱も、それぞれの旅の記憶と深く結びついています。ある地方都市で見つけた、手描きの可愛らしいイラストが描かれたマッチ箱は、旅先で感じた孤独を癒やしてくれた一杯のコーヒーと、優しい笑顔の店員さんの姿を思い出させると言います。それは、単なる出張の記録ではなく、それぞれの土地で触れた人情や、一期一会の出会いの記憶そのものなのです。
もちろん、収集には苦労も伴います。情報が少なく、閉店してしまったお店のマッチ箱は二度と手に入らない場合がほとんどです。街を歩いていて、素敵なお店のマッチ箱がないと分かった時の落胆や、手に入れたいと思っていたマッチ箱が高値で取引されているのを見た時の複雑な心境なども、収集家ならではの経験だと話してくださいました。しかし、そうした苦労も含めて、マッチ箱を探し、手に入れるプロセスそのものが、日常に張りを与えてくれるのだと言います。
マッチ箱が教えてくれたこと
山田さんにとって、マッチ箱の収集は、過去を振り返る大切な時間を与えてくれるものとなりました。小さな箱のデザインには、その時代の流行やお店の個性が詰まっており、一枚一枚が語り部となって、過ぎ去った日々や世の中の移り変わりを教えてくれるようです。また、同じ趣味を持つ人との出会いも、収集の大きな喜びの一つだと言います。インターネットを通じて情報交換をしたり、実際に集まって自慢のコレクションを見せ合ったりすることで、共感や新たな発見があり、世界が広がったと話されていました。
マッチ箱は、かつてはどこのお店にもあったありふれたものでした。しかし、時代とともにその姿を見る機会は減り、今では貴重な存在となりつつあります。山田さんは、ご自身のコレクションを眺めるたびに、時代の変化を肌で感じると同時に、何気ない日常の中にこそ、後になってかけがえのない思い出となる一瞬一瞬が隠されていることを改めて実感するそうです。
一枚のマッチ箱は、小さくて薄い紙の箱ですが、その中には収集家それぞれの人生の風景、出会い、そして温かい記憶がぎゅっと詰まっています。山田さんのマッチ箱は、これからも静かに、その持ち主の人生の物語を映し出し続けていくことでしょう。