硬券切符が繋ぐ、過ぎ去りし旅の記憶
硬券切符が繋ぐ、過ぎ去りし旅の記憶
「硬券(こうけん)」という言葉をご存知でしょうか。かつて鉄道の駅で売られていた、厚いボール紙でできた切符のことです。自動改札機が普及した現代ではめったにお目にかかることはありませんが、この硬券に魅せられ、その一枚一枚に宿る物語を大切に収集されている方がいらっしゃいます。今回は、長年硬券収集をされているという田中さん(仮名)に、その世界についてお話を伺いました。
旅立ちの記憶、一枚の硬券から始まった収集
田中さんが硬券収集を始められたのは、今から十数年前、会社を定年退職されて間もない頃でした。きっかけは、実家の整理中に偶然見つけられた、一枚の古い硬券だったと言います。
「それは、私が小学生の頃、初めて家族旅行で遠くへ行った時の切符でした。確か、父が大切に保管していたものだったと思います。硬くてしっかりした紙の手触り、独特の活字、そして何より、裏側に小さく押された『〇〇駅発行』というゴム印。それを見た瞬間に、子供心に感じた旅への期待感や、家族と過ごしたあの日の情景が鮮やかに蘇ってきたのです。」
その一枚の切符が、田中さんの心に眠っていた収集への情熱に火をつけました。幼い頃から鉄道が好きで、旅の記念に切符を残しておく習慣はあったものの、それが「収集」という形になったのはその時が初めてでした。
「最初に集め始めたのは、自分が実際に乗った路線の硬券でした。でも、すぐに廃線になったり、無人駅になって硬券の販売が終了してしまったりする駅が増えてきて、だんだん『失われていくものを記録しておきたい』という気持ちが強くなりました。それからは、乗るためではなく、硬券を手に入れるために旅をすることもありました。」
切符一枚に宿る物語
硬券収集の魅力は、単に古い切符を集めることだけではありません。田中さんは、それぞれの硬券に込められた物語や、その切符が使われていた時代の空気を感じることに深い喜びを見出しています。
「一枚の硬券には、出発した駅、到着した駅、そして日付が印字されています。それは、確かに誰かがその日、その区間を旅したという証なのです。特に、今はもう存在しない駅や路線の硬券を見ると、当時の人々の暮らしや、その地域が辿ってきた歴史に思いを馳せずにはいられません。」
珍しい硬券との出会いは、まさに宝探しのようなものです。田中さんは、古い骨董市や地域の小さな古本屋などを根気強く巡り、思わぬ掘り出し物を見つけてこられました。また、他の収集家との情報交換も大切な時間です。
「硬券収集家同士で集まると、切符を見せ合いながら『これはあの時の旅行で使った切符だ』とか、『この駅はもう硬券を売っていないんだよ』とか、話が尽きません。同じ趣味を持つ者同士だからこそ分かり合える喜びや苦労があって、そうした繋がりもまた、硬券収集が私に与えてくれた大切な財産です。」
中には、手に入れるまでに苦労した切符もたくさんあります。例えば、ごく短期間しか販売されなかった記念切符や、特定の無人駅で限られた時間だけ委託販売されていた硬券などです。そうした切符をようやく手に入れた時の達成感は、何物にも代えがたいと言います。
「苦労して手に入れた一枚だからこそ、見るたびにその時のことが鮮明に蘇ります。真夏の暑い日に、誰もいない小さな駅で何時間も電車を待ったこと。遠く離れた町まで、その切符のためだけに旅をしたこと。それぞれの切符に、私の人生の記憶がしっかりと結びついているのです。」
硬券が教えてくれた人生の深み
硬券収集は、田中さんの日々に彩りを与え、人生に対する新たな視点をもたらしてくれました。
「硬券を見ていると、過ぎ去った時間や、変わってしまった風景について考えさせられます。でも、それは寂しいことばかりではありません。むしろ、変化を受け入れ、今あるもの、そして過去にあったもの全てを愛おしいと感じるようになりました。」
また、硬券を通じて地域の歴史や文化に触れる機会が増え、旅先の小さな駅にも深い関心を持つようになったと言います。
「以前はただ通過していただけの駅にも、硬券という手がかりがあることで、そこに暮らす人々の営みや、駅舎の歴史など、様々な物語が見えてくるようになりました。硬券は、私にとって単なる収集品ではなく、世界と繋がるための扉のようなものかもしれません。」
一枚の紙片に込められた温もり
田中さんにとって、硬券収集は単なる趣味の域を超え、人生を豊かにする大切な営みとなっています。
「硬券は、たとえ一枚の小さな紙片であっても、そこには旅をした人の想いや、切符を作った人の手仕事、そして時代の空気が宿っています。それらを大切に守り、次の世代に伝えることができたら、これほど嬉しいことはありません。」
硬券一枚に込められた温もりと物語に触れるたび、田中さんの心には、過ぎ去りし旅の記憶と、これからも続く人生の旅への静かな期待が満ちるそうです。