喫茶店の砂糖の包み紙に包まれた、日々の小さな憩い
喫茶店の砂糖の包み紙に包まれた、日々の小さな憩い
収集という言葉を聞くと、多くの方は切手やコイン、あるいは高価な美術品などを思い浮かべるかもしれません。しかし、世の中には、ごく日常的な、ともすれば見過ごしてしまうような品々に、深い愛情を注ぎ、コツコツと集め続けている方々がいらっしゃいます。今回は、そんなユニークな収集の一つ、「喫茶店の砂糖の包み紙」に魅せられた男性、田中さん(仮名、60代)のお話をお伺いしました。
田中さんのコレクションは、喫茶店で提供される、ごく普通の砂糖の包み紙です。スティックシュガーやグラニュー糖など、大きさも形も様々ですが、共通しているのは、どれも田中さんが実際に喫茶店を訪れた際に手にしたものだということです。
一枚の包み紙から始まった、心の旅
田中さんが砂糖の包み紙を集め始めたのは、今から十年ほど前でしょうか。当時はまだ会社員で、仕事帰りに立ち寄る喫茶店が唯一の憩いの時間だったと言います。
「いつもは何も気にせずに使っていた砂糖ですが、ある日ふと、包み紙のデザインが店によって違うことに気づいたのです。ある店はシンプルでモダン、また別の店はレトロなイラストが描かれている。中には、お店の名前が大きくプリントされているものもあれば、本当に無地のものもある。その多様性に、妙に心を惹かれました」
最初は、気に入ったデザインのものを何枚か持ち帰る程度だったそうです。それが、次第に「どんなデザインがあるのだろう」という興味に変わり、意識的に包み紙を持ち帰るようになりました。もちろん、使うべき砂糖を使わずに持ち帰ることに、最初は少し抵抗があったと言います。
「店員さんに『この人、砂糖泥棒じゃないか』なんて思われたらどうしよう、と内心ドキドキしていましたね。でも、一枚一枚の包み紙に、そのお店の個性や、その日の自分の気分、一緒にいた人の顔などが映し出されるような気がして、やめられなくなりました」
田中さんのコレクションは、単なる紙切れの集まりではありません。それは、一つ一つが喫茶店で過ごした時間、そこで交わされた会話、そしてその日の出来事の記録なのです。例えば、あるデザインが独特な包み紙を見ると、初めて訪れた静かなジャズ喫茶の雰囲気を思い出すそうです。また、シンプルな無地の包み紙は、悩みを抱えながら一人で過ごしたカフェの時間を蘇らせます。
「一枚の包み紙には、その時の空気や匂い、そして何よりも、その瞬間の自分の感情が宿っているように感じます。単に物を集めているのではなく、私にとっては過去の自分自身と向き合う、小さなタイムカプセルのようなものなのです」
日常の中に見出す、確かな価値
砂糖の包み紙という、ごく当たり前のものに価値を見出す田中さんの収集活動は、周囲の理解を得にくい面もあるかもしれません。
「友人に見せても、『ああ、砂糖ね』とあっさり流されることが多いです。正直、『これのどこがいいの』と言われたこともあります。でも、私がこの小さな紙切れにどれほどの思いを込めているかは、自分自身が一番よく分かっていますから」
田中さんは、集めた包み紙を種類ごとに分類し、丁寧にノートに貼り付けて保管しています。そのノートは、まるで彼の人生の喫茶店巡りの記録であり、日々の小さな出来事の備忘録のようです。そこには、成功した商談の後に持ち帰ったお祝いの一枚もあれば、大切な人との別れを経験した日に手にした寂しい一枚もあることでしょう。
この収集を通じて、田中さんの日常には、ある変化が生まれたと言います。それは、「見過ごさない」という意識です。
「以前は、何気なく通り過ぎていた街並みや、日常の中にある小さなデザイン、色の組み合わせなどに気づくようになりました。当たり前だと思っていたものの中に、こんなにも多くの物語や工夫が隠されているのだと知ったのです。砂糖の包み紙に限らず、道端の石ころや、空の雲の形など、一つとして同じものはない。そう思うと、毎日が少しだけ、輝いて見えるようになった気がします」
ささやかな収集が織りなす、豊かな人生
田中さんの砂糖の包み紙コレクションは、これからも増え続けていくことでしょう。彼の「推しグッズ」である砂糖の包み紙は、高価なものでも珍しいものでもありません。しかし、そこに込められた収集家の情熱と、一つ一つの包み紙に紐づく人生の記憶は、何物にも代えがたい価値を持っています。
「これからも、色々な喫茶店を訪れて、新しい包み紙に出会いたいですね。そして、それにまつわる新しい思い出を紡いでいきたいです。この小さな紙切れが教えてくれる、日常の豊かさ、そして自分自身の心の動きを大切にしながら、これからも生きていきたいと思っています」
田中さんの穏やかな笑顔からは、ささやかな収集が彼にもたらした、心の充足感が伝わってきました。私たちも、日常の中に隠された小さな輝きや物語に目を向けることで、日々の暮らしがより豊かになるのかもしれません。