欠けた陶器が教えてくれた、人生の愛おしさ
不完全の中に宿る静かな輝き
私たちはつい、完全なもの、無傷なものに価値を見出しがちです。しかし、この世には、傷つき、形を崩しながらも、独自の美しさを放つ存在があります。今回お話を伺ったのは、古い陶磁器、それも「欠けたり、ひび割れたりした」ものに心を惹かれるという、佐藤さん(仮名)です。
佐藤さんのご自宅に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは、棚やテーブルの上に静かに佇む、様々な時代の陶磁器たちです。それらの多くには、確かに、欠けがあったり、細かなひびが入っていたりします。しかし、不思議とそれらが「傷」として目に映るのではなく、長い時間を生きてきた証、あるいは景色の一部のように感じられるのです。
なぜ、欠けた陶器に惹かれたのか
佐藤さんが欠けた陶磁器の収集を始めたのは、今から十五年ほど前のことです。それまで特に何かを集める趣味はなかったそうですが、ある日、骨董市で偶然手にした小さな陶片に、言いようのない温かさと奥行きを感じたのがきっかけでした。
「それは江戸時代の、何の変哲もない蕎麦猪口の欠片でした。本来なら捨てられてしまうようなものかもしれません。でも、手に取った時に、その土の感触、焼かれた時の炎の跡、そして何よりも、その欠けた部分の断面に、長い時間を経てきた気配、静かな物語のようなものを感じたのです。」
その陶片を家に持ち帰り、日がな眺めているうちに、佐藤さんの心に変化が訪れたといいます。「それまでは、何事も完璧であるべきだ、失敗は許されない、と自分自身を厳しく律するところがありました。でも、この欠片を見ていると、傷つくこと、不完全であることも、そのものの個性であり、魅力になり得るのではないか、と思えてきたのです。」
修復と共に見出した「景色」
欠けた陶磁器を集めるうちに、佐藤さんは自ら金継ぎにも挑戦するようになりました。金継ぎは、欠けたり割れたりした陶磁器を漆と金や銀の粉を用いて修復する日本の伝統技法です。
「最初は、ただ直す、という気持ちでした。でも、実際に自分の手で漆を塗り、金を蒔いていく作業を通して、見方が変わりました。欠けた部分は隠すものではなく、むしろ、そこに新たな景色を描き出す場所になるのだと知ったのです。金色の線が入ることで、元の器にはなかった新しい魅力が生まれます。それは、一度壊れたものが、別の形で再生し、さらに美しくなるプロセスでした。」
佐藤さんにとって、金継ぎは単なる技術ではなく、欠けを受け入れ、新たな価値を見出すための哲学のようなものだといいます。それぞれの欠けの形、ひびの入り方に合わせて、どのような線を引くか、どのような色を合わせるか。それは、器との対話であり、自分自身の内面と向き合う時間でもありました。
欠けが語る人生の物語
佐藤さんのコレクションの中で、特に思い入れが深いのは、かつて旅先で手に入れた、小さな急須の蓋だそうです。その蓋は、大きく欠けているだけでなく、茶渋が染み込み、長年使い込まれた跡がはっきりと見て取れます。
「持ち主はどんな人だったのだろう。この急須で、どんなお茶を淹れ、どんな会話を交わしたのだろう。そう想像すると、この欠け一つ一つが、その人の人生の物語のように感じられるのです。完璧な状態では語られない、生きることの痕跡、歴史のようなものが、ここには詰まっている気がします。」
その蓋を金継ぎで修復した時、佐藤さんは、まるでその急須を使っていた誰かの人生に、そっと寄り添うような気持ちになったといいます。欠けを埋めるのではなく、その存在を肯定するように、金色の線を描き加えたそうです。
不完全を受け入れるということ
欠けた陶磁器との出会い、そしてそれらと向き合う日々は、佐藤さんの人生観に静かな変化をもたらしました。
「以前は、自分の欠点や失敗を隠そうとしてばかりでした。でも、欠けた陶器の美しさに触れるうちに、不完全であることは決して否定されるべきことではなく、むしろ、その人やものの個性であり、深みになるのだと気づいたのです。完璧ではない自分自身も、欠けた陶器のように、愛おしい存在なのだと、少しずつですが、思えるようになりました。」
佐藤さんの目は、欠けた陶磁器を見つめる時、優しさと、どこか遠くを見通すような光を宿しています。彼女の指先が、金継ぎされた線の上をそっとなぞる様子は、まるで、人生という複雑で美しいタペストリーの一部を確かめているかのようです。
欠けた陶器たちは、佐藤さんの人生において、静かな師であり、共に歩む友人でもあるのでしょう。不完全さの中にこそ宿る真の愛おしさを、彼女は今日も、欠けた一片の土から学び続けています。