古い万年筆が紡ぐ、心に残る言葉の軌跡
ペン先に宿る、静かなる情熱
静かに佇む一本の万年筆。磨き上げられたペン先が鈍い光を放ち、長い年月を経た軸には、使い込まれた者だけが纏う深い艶があります。単なる筆記具でありながら、その姿は多くの物語を内包しているかのようです。今回は、そんな古い万年筆を愛おしみ、収集されている佐藤さん(仮名)にお話を伺いました。佐藤さんの手元には、様々な時代、様々な国の万年筆が大切に保管されています。それぞれのペンには、どのような物語が宿っているのでしょうか。
祖父の書斎で見つけた、忘れられない一本
佐藤さんが古い万年筆の収集に足を踏み入れたのは、今から二十年ほど前のことでした。きっかけは、他界されたお祖父様の遺品整理をしている際に、書斎の引き出しから見つけ出した一本の万年筆でした。
「お祖父様がいつも何かを書くときに使われていたのは知っていましたが、それが万年筆だとは意識していませんでした。ただ、あのペン先が紙に触れるときの、カクカクとした独特な音と、インクの香りは記憶に残っていましたね」と佐藤さんは当時を振り返ります。
手に取ってみると、それは戦前に作られたという、ずっしりとした重みのある万年筆でした。埃を払って試しにインクを入れてみると、滑らかな書き心地に驚かされたと言います。「初めて書いたとき、まるで言葉が自然と流れ出すような感覚でした。お祖父様がこのペンでどんなことを書かれていたのだろうと想像したら、温かいものが込み上げてきました。これが、私の万年筆集めの原点です」
この一本をきっかけに、佐藤さんは古い万年筆の世界に魅せられていきます。オークションサイトや骨董市、古い文房具店などを巡る日々が始まりました。
一本一本に刻まれた、持ち主の記憶
収集が進むにつれて、佐藤さんは万年筆の奥深さに触れていきます。デザインや素材の違いはもちろんのこと、同じメーカー、同じモデルであっても、使われてきた年月や持ち主の癖によって、ペン先の摩耗具合やインクの通り道が微妙に異なるのです。
「一本一本に、前の持ち主の痕跡が残っているんです。たくさん使われたペン先は、まるでその人の筆圧や書き癖を記憶しているかのようです。修理を依頼した職人さんに『これは相当書き込まれていますね。きっと大事に使われていたのでしょう』と言われた時は、なんだかそのペンが歩んできた道のりを見たような気持ちになりました」
特に印象深いのは、ある古い手紙と共に手に入れた万年筆だそうです。手紙は戦時中のもので、家族に向けた安否を知らせる短い文章が綴られていました。その文字は、少し震えながらも力強く、万年筆から出たインクがわずかに滲んでいます。
「このペンで、この方がこの手紙を書いたのだと思うと、胸がいっぱいになります。物は語りませんが、その存在そのものが、持ち主の生きた証を伝えているように感じられます。私の手元にある万年筆たちは、単なる収集品ではなく、それぞれが誰かの大切な思いや記憶を宿した存在なのです」
新しい万年筆にはない、こうした時間の重みや物語性に触れることが、佐藤さんの収集の大きな喜びだと言います。時にはインク漏れを起こしたり、思うように書けなかったりすることもありますが、丁寧に手入れをし、再び命を吹き込む作業もまた、愛着を深める大切な時間となっています。
書くことの喜び、そして静かな時間
佐藤さんの万年筆収集は、単に数を集めることではありません。手に入れた万年筆は、可能な限り実際に使うようにしているそうです。
「万年筆で書く時間は、私にとって特別な時間です。スマートフォンの画面を見るのとは全く違って、じっくりと自分の内面と向き合える静かな時間です。書くスピードも自然とゆっくりになりますし、文字を書くという行為そのものに集中できます」
日記をつけたり、読書の感想を書き留めたり、あるいは大切な人へ手紙を書いたり。万年筆を通して綴られる言葉は、デジタルでは得られない温かみと重みを持つように感じられます。
「一本の万年筆から始まった収集ですが、それは私に『書くことの喜び』を改めて教えてくれました。そして、一つ一つの古い物にも、私たちと同じように歴史があり、物語があるのだということを教えてくれたように思います」
万年筆と共に綴る、これからの日々
佐藤さんの万年筆収集は、これからも静かに続いていくことでしょう。新たな一本との出会いを楽しみ、そして手元にある万年筆たちと共に、これからの日々を丁寧に綴っていくのだと言います。
古い万年筆が奏でる、紙の上を滑る音。インクが染み込んでいく僅かな滲み。そして、ペン先から紡ぎ出される言葉の数々。それらは、確かに誰かの人生の軌跡であり、これから佐藤さんが歩んでいく道のりの証となっていくことでしょう。