一本の古い鉛筆が語りかける、人生の書き跡
静かに集める、失われた時の証
私たちの日常から、いつの間にか姿を消しつつある物があります。デジタル化が進み、キーボードや画面上の文字入力が主流となった今、かつて誰の手にも馴染み深く、思考の跡を刻んだ一本の筆記具、鉛筆もまた、そうした存在の一つかもしれません。
しかし、その「古い鉛筆」に魅せられ、静かに収集を続けている方がいます。今回は、長年にわたり古い鉛筆を収集されている、都内在住のAさん(60代・男性)にお話を伺いました。Aさんのご自宅の一角には、年代も製造元も様々な古い鉛筆が、大切に保管された箱やケースに整然と並べられています。削られて短くなったもの、ほとんど使われずに時を経たもの、鮮やかなコーティングを保つもの、かすれた文字が刻まれたもの。一本一本が、それぞれの物語を静かに湛えているかのようです。
収集を始めた、ささやかなきっかけ
Aさんが古い鉛筆の収集を本格的に始められたのは、今からおよそ十数年前のことだといいます。それまでも、子供の頃に使っていた鉛筆や、学生時代にお世話になった文具店で買った鉛筆などを何となく手元に置いていたそうですが、ある時、古い木箱の中から見つけ出した一本の鉛筆が、収集家としての道を歩むきっかけとなったそうです。
「それは、もうずいぶん昔、小学校に入る前だったでしょうか。祖父が使っていた鉛筆なんです。煤けたような深い緑色をしていて、六角形の軸には、今では見かけないような古風なロゴが小さく印刷されていました。削りかけで、芯が少し丸くなっている。それを見た時に、何とも言えない懐かしさと、この一本の鉛筆が経験してきたであろう時間、祖父の手の中でどんな文字や絵を描いたのだろうという想像が膨らんで、心が震えたんです」
その一本から始まった興味は、次第に他の古い鉛筆へと向けられるようになりました。骨董市やフリマアプリ、時には地方の寂れた文具店などを探し歩き、少しずつコレクションが増えていったそうです。
「初めは、単に懐かしいと感じるものを集めていただけでした。でも、調べてみると、一口に『鉛筆』と言っても、時代によって木材の種類、芯の配合、塗装の仕方、印刷される文字やデザインが全く違うことに気づきました。それはまるで、その時代の暮らしや文化、産業の変遷を映し出す鏡のようでした」
一本一本に宿る、持ち主の気配と時代の息吹
Aさんのコレクションの中でも特に印象的なのは、かつての企業のノベルティとして配られたと思われる鉛筆や、特定の学校や団体向けに作られた記念鉛筆です。それらの鉛筆には、当時の社名や校章、イベント名などが印刷されており、今はもう存在しない会社や、遠い昔の行事を偲ばせます。
「この鉛筆は、昭和30年代の銀行のノベルティだったと聞いています。まだ子供だった頃に、親に連れられて行った銀行の窓口で、こんな鉛筆をもらった記憶がおぼろげにあるんです。この一本を手に取ると、当時の硬貨の匂いや、銀行員さんの制服の感触まで蘇ってくるような気がします」
また、中には芯がギリギリまで削られ、補助軸に差し込まれて最後まで使い切られた様子の鉛筆もあります。
「こういう鉛筆を見ると、かつての日本人が物を大切にした暮らしぶりが伝わってくるようです。そして、この鉛筆を使った人が、どんな思いで、どんなことにこれを使ったのだろうと想像するんです。一生懸命勉強した跡かもしれませんし、誰かに手紙を書いたのかもしれない。あるいは、日々の帳面をつけたのかもしれません。一本の短い鉛筆から、その人の真面目さや生活の息遣いが感じられるようで、とても愛おしくなります」
収集には、時には苦労も伴います。欲しい年代やメーカーの鉛筆がなかなか見つからなかったり、状態の良いものに出会えなかったりすることも少なくないそうです。しかし、苦労の末に探し求めていた一本を見つけた時の喜びはひとしおだといいます。
「ネットオークションで、商品説明が不十分な古い鉛筆の束を見つけたことがありました。写真も不鮮明だったのですが、どうにも気になって落札してみたら、中にずっと探していた大正時代の珍しいメーカーの鉛筆が混じっていたんです。見つけた時は、心臓がドキドキしましたね。まるで宝探しをしているような感覚です」
鉛筆が教えてくれた、人生の静かな哲学
Aさんにとって、古い鉛筆の収集は単なる趣味を超えた、人生の一部となっています。一本一本の鉛筆に触れる時間は、過去との静かな対話であり、失われつつあるものへの敬意を表す時間でもあります。
「現代はすぐに新しいものに飛びつき、古いものを忘れがちです。でも、古い鉛筆を見ていると、どんな物にも、使われた時間や、それを作った人、使った人の思いが宿っているのだと感じます。そして、それは決して無駄ではない。一本の鉛筆が短くなっても、それで書かれた文字や描かれた絵は残る。それはまるで、私たちの人生のようです。時間は過ぎ去り、体は衰えていくけれど、その中で経験したこと、考えたこと、誰かに伝えたことは、何らかの形でこの世界に残っていくのではないか、と」
Aさんは、これからも静かに鉛筆を集め続けるそうです。そこには、希少価値の高いものを手に入れるという欲求よりも、まだ見ぬ過去との出会い、一本一本の鉛筆に秘められた物語を丁寧に読み解いていきたいという、純粋な探求心があるように感じられました。
古い鉛筆のコレクションは、Aさんにとって、過ぎ去りし日々の「書き跡」であり、そして、これから紡がれていく人生の静かな「書き跡」なのかもしれません。一本の鉛筆が語りかける声に耳を澄ませる時、私たちは、忘れかけていた大切な何かに気づかされるのではないでしょうか。